おかぴの生き方研究室

私とはなにか|20代の思考備忘録

私たちは日常的に「私はおかぴです」「私は20歳です」など、私の言葉を使って生活している。

それに、自分自身のことを私という存在と認識し、疑問を抱かずに生きている。

ただ、大きな不安に包まれたときやひどく落ち込んで不安定になったときなどに「私って一体なんなんだろう?」「なんで私は生きているんだろう」と悩む。

これほどまでに我々を思い悩ませる私とは一体何なのだろうか?私の存在はそれほどまでに絶対的なものなのだろうか?

今回はこの疑問について考えてみようと思う。

「私」の勘違い

まずは日常的に”私”がどのような形で使われているか考えてみる。突然だが、「自己紹介してくれませんか?」と聞かれてなんと答えるだろうか。

  • 名前
  • 職業
  • ママ、パパ

上記の項目は一例だが、「私は○○(会社名)で××(職業)をしている△△(名前)です。」と答える人が多いはず。しかし、純粋な目で”私”を見てみると、上記の名詞はなにも”私”を説明したことにはならない。

例えば、佐藤・高橋などの名前は親によって決められたものである。医者・美容師・事務職員などは職業人の呼び名である。

母、父、子どもという言葉も人間同士の関係性をわかりやすく示す名詞であり、”私”自体は説明していない。職業人や家族関係の前に”私”は1人の独立した人間であり、名前など必要ない。ただ、呼び名はなくともしっかりと私として存在している”感じ”はある。

すべてを捨てた「私」とは

プログラマー・薬剤師などの職業名でも、名前でも、ママ・パパなどの関係性を表す名詞でもない”私”とはいったい何者なのだろうか?

あらゆる社会的な呼び名を捨てて考えた”私”の存在に迫っていく。

よくわからない「私」

これがよくわからないのだ。本当にわからない。

“私”はどこにあるかと聞かれたら、きっと胸元を指すが、胸や心臓の位置に”私”はない。あるのは臓器や皮膚だ。

次に脳を思い浮かべるが、脳も臓器の1つだ。脳は身体の司令塔で重要な働きをする器官ではあるが、脳=”私”ではない。

もし脳が”私”だとしたら、「脳=”私”だと思っているのはいったい何なのか?」「この文章を読んで、わかった/わからないと感じているのは何なのか?」となってしまう。

じゃあ”私”は何なのか。次は人の出生から考え直してみよう。

出生から考える「私」

私たちはいま生きている限り、赤ちゃんとしてこの世に誕生した。誕生はしたが、誰1人として自分の意志で生まれてはいない。

なぜかわからないが生まれ、いつからか私の自覚が芽生えて、私の人生を歩んでいると感じるようになる。

私の議論をややこしくするのが、自我というヤツだ。自我は「私は○○をしたい」「私が○○をした」という風に私が主語になるのだが、自我の場合の私と”私”は大きく異なる。

自我は親をはじめとして、周囲の人間と比較して生まれるものである。他者と肉体的に異なることなどを通して、少しずつ自己がはっきりとしていく。

ただ、よく考えてみれば自我が生まれる前にも、おぎゃー!と泣いている存在がいる。幼児期には他者と比べた私はいないが、確実に”私”は存在する。

無垢な存在の赤ん坊は、なににもとらわれずに思いのままに世界を捉えて成長していく。成長につれて言葉を理解できるようになり、親から繰り返し呼ばれる形で、この存在(自分)は○○くん・ちゃんと呼ぶのかと知っていく。

さらに一人称の私・自分・俺という呼び方も覚えて、さまざまな言動を私が行っている自覚も芽生えていく。

つまり、幼児期には「ただの存在」だったものが、言葉に対する自覚や自我の発見とともに名前を与えられた「特別な私」に変化してゆく。では大人になってしまったら、「ただの存在」は消えてしまうのだろうか?

そんなことはないはずだ。あらゆる代名詞を取り除いても、”私”は”私”という絶対感がそこに残るだろう。

「私」は矛盾を孕んだ存在

さて、いよいよわからなくなってきた。日常的に私は~と使っているのは、本当の”私”ではないのだろうか。

現時点でわかることをまとめておこうと思う。私というのは、あるとなしの両面を併せ持つ存在である。今を生きている私たちは、普段は私がいると思い込んでいるし、「一人称の私」を通してしか世界を認識できない。

この文章を読んでいても、「私が読んでいる」と思ってしまうはずである。しかし、考えてみると世の中を見て感じている確固たる私はどこにもない。あると思って生活しているものが、実はないのである。でもあるとしか思えない。

どこからやってきたのか分からない存在が、あるとなしの狭間に生息している肉体と考える精神を持ったヤツが、たまたま私をやっているだけ。”私”は矛盾を孕んだ謎の存在なのである。

「私」は結局わからない

私とは「よくわからないけれど、そこに存在する感じがするもの」である。あるようでない、それでいて確かにあると感じられるものと言い換えてもいい。

そんなよくわからない存在が毎日なにかを感じて、考えて、生活を送り、生きて死んでいくのである。いやはや、まったくもって理解ができない。謎である。

この記事の冒頭で「私とは一体何なのか?」と疑問を投げかけた。結局疑問の答えは、わからないままである。記事を読んでがっかりしただろうか?なんだ、気づきといっても何1つわかっていないじゃないかと。

そうじゃない。考えれば考えるほどわからない、”私”の謎を知ることが大切なのである。

なぜなら”私”=謎と知っていれば、人生そのものが謎となり、生きていること自体が不思議なことに感じられるからだ。自分自身が謎や問いとなって、不思議の中をさまようことになるのである。

そして、自分だけでなく、友人も家族も他人も全人類が同じだけ不思議を抱えながら生きていることが分かる。

”私”がなぜか生きているという謎を内包しながら日々を送ることは、非常に愉快で面白い。些細な感情に振り回されることも減っていくだろう。きっと我を通そうとムキになることも減るだろうし、他人のこともちょっとだけ受け入れやすくなるはずだ。

謎が生きながら更なる謎を発見していく過程は、そんじゃそこらの娯楽では替えが利かない楽しさがある。記事を読んでくれた人が「なんだかよくわからなかった」となってくれたら、狙い通り。納得がいくまで自分で考えてみてほしい。

最後までお読みいただきありがとうございました。