おかぴの生き方研究室

死をどう受け止めるか|20代の思考備忘録

2022年12月7日 私の祖母は亡くなった。2日前には元気な声を聴いていた。突然の知らせだった。

身近な人の死を受けると、心が乱れ、悲しみや嘆きを感じる人が多いだろう。それほど死、特に身近な人の死が与える影響は大きい。

ただ、なぜか私は死を悲しむばかりではいられなかった。私自身が不思議な体験をしたと感じている。

今回は、祖母の死を受けて私自身が感じたことと実際に起こした行動を紹介していく。

やや余談になるが、私は文章や声にするときに、なるべく「普遍的なこと」か「私はこうするという考え」しか言わないように心がけている。

今回についても死についての普遍的なことと、私がどのように死を受け止めているかを語るだけである。

祖母の死を受けた私の情緒

「悲しいがそれだけではない」というのが正直なところだった。もちろん、もう言葉を交わせない悲しさや手料理を食べられない寂しさはある。

寂しいというとどこか心が欠けて、悲しい感じをイメージするかもしれないが、私が感じたのは沸々と湧きあがるような感じだった。

あとになって、私は「生」と「生命力」を強く感じていたのだとわかった。

死の存在が強まれば生が強くなる


祖母の死により、私は生を強く感じた。生と死は背中合わせのように思えるが実は違う。

「人生とはそもそも何か」の記事でも書いたように、死はわからない。ただ死を考えようと思えば生が鮮やかに現れてくるつくりになっている。

死なんてものはなく、ただ生、もっと言えばいまがあるだけなのだから。

祖母は死んだ。そう認識している。だが死んではいない。感情的に受け入れがたい意味で否定しているのではない。死んだという現象を定義できない限り、死ぬことはない。

それでも社会的には死んだことにしないと話が進まない。それに私も死んだことを直感的に理解している。

祖母という身近な存在が死んだことを通じて、「やはり私がいまここに存在している」と再確認したのだ。だからこそ、生命力がむくむくと湧き出てきて、死の謎すらもひっくるめて爆発したのだろう。

力強い悲しみと湧きあがる生命力

祖母はよくわからない死というものを迎えて、私は死を感じて生きている。寂しさと謎と生命感が混ざり、私は絶対感のもと、力強く悲しんでいた。

やはりこの感じは形に表わしたいと思った。問題は力強い悲しみを何に表現するかである。絵・映像・踊り・音楽・歌など表現方法はたくさんある。

なぜだろうか。私は想いを俳句に託そうと思った。未だに謎である。

以下の俳句は12月8日~12月20日くらいの間の作品である。

乱気流 枯れ咲き落ち萌え 回り出す
昼下がり みらいに宿る 夢赤飯
一番星 着せる無常に 知らぬふり
刻む鼓動 ケプラー導く 四分音符
薄れゆく 2人のわたしに また明日
わからない わかってしまう この不思議
鬼はうち 舞い散る一葉 福はそと
風呂上がり 3枚少ない レタスの葉
赤と青 アシンメトリな 温かさ
寒空に 情緒纏綿 円周率
さわさわと 揺れる裸木 活火山
日向ぼこ 髄まで溶ける 浸透圧
1人きり 外耳に消える エンジン音
息白し 柳よ揺れて どこまでも
寒い夜 惰性でむさぼる スナック菓子
ネオン街 薄目で蛾を見る かたつむり
風は冬 回る葉舟に 浮かぶ月
人知れず いのちを見守り 散る銀杏
スマホに目 目には入らぬ ぬれ銀杏
キミの不安 私が包んで 塩大福
“こ”の不安 螺旋でつながる 愉悦感
グラスビール 泡はまだかと 空をまつ
ふわり雪 寒さを超える この喜び
不協和音 私を消せば オーケストラ
苔むす木 わた雪染みて 化粧水
10日前 雪でそわそわ あわてんぼう
冬目覚め 凍てつく想いと 共振す
生きて死ぬ 無常は宇宙と 腐れ縁
目を閉じる 開くと見える 情緒かな
冬枯や にほい移ろふ 帰り道
我がこころ 普通を生きる 心地よさ

死を力強く受け止める

私は身近な存在の死から生を感じ、生命の絶対感を知り、湧き出るエネルギーを俳句に託した。果たしてこの選択が正しかったのだろうか。誰もわからない。

でもこれでよかったし、こうしかできなかったようにも思う。瞬間瞬間を生きて生命力を純粋に爆発させたいと思っている私にとっては、死と生の不思議、そして世の中の不思議を表現させずにはいられない。

きっとこれからもそうして生きていくのだろう。以上が死を力強く受け止めた私の体験談である。